寄稿文:「看護を超えた看護」


 

青山学院大学大学院
ヒューマンイノベーションコース
社会情報学部 准教授 香川 秀太

 

 

10月28日,11月17日,12月1~2日,コミュニティナースプロジェクト7期の講座にオブザーバーとして参加させていただきました。
以下、僭越ながら,私なりに考えたことを寄稿させていただきますので、ぜひご覧ください。

さて,参加した感想を一言で述べれば…それはあ「看護界の革命」。

コミュニティナースの活動のデザインにおいて,マニュアル的な標準化も,まして細かなチェックリストなど存在しえないし,しばしばピラミッド型と言われてきた医療組織,あるいは看護師という専門性の枠組みや制約を,明らかに超えた(beyond the boundary)「現実の形」を模索しているように思いました。

看護教育実践に登場する枠や常識を,「あまりにもナチュラルに」超えてしまっているように思え,エキサイトしました。

しかし,それは決して,従来の看護師の専門性を棒に振るような荒唐無稽な取り組みではなく,一方で,産業主義の発展以降失われたケアの実践の回復であり,あるいは,70年代以降論じられてきたコミュニティ・ケアの理念の魅力ある「具現化」であり,他方で,今の時代,そして何よりこれからの社会構造そのものをより良くデザインしていく,「“看護を超えた看護”の新しい可能性」といえるものと感じています。

先端的で魅力ある実践に共通しているのは,産業やテクノロジーの発展によって失われていったのだけれども,本来大事だった,過去の在り方に回帰しながら,しかし単なる復古ではなく,一方で新しいものを取り込みながら未来に前進していくという逆方向の時間的運動がみられる点ではないかと考えているのですが,まさにコミュニティナースにはそのような時間性を感じてもいます。

では,幾つか,私が以上のように特徴的と感じた点を少し整理しながら書いてみたいと思います。

 

その1) 患者が対象ではない看護!?:「治療」から「共癒」へ
まず,コミュニティナース活動の主要な対象は,「病を患う者(患者)のケア」というより,むしろ,(病を持たない人も含めた)「愉しく自由で助け合うまちづくり(創造)」と感じました。

別の言葉を使えば,共愉(きょうゆ)的で,共生的で,互助的なネットワークを,まち全体に広げていく活動といえますし,もっといえば,特定の個々人と言うより,「人と人,人と地域とのネットワーク(システム)」それ自体に働きかける活動,それまでのネットワーク(縦割り,分断,孤立)そのものをつくり変えていく活動であり,まちづくりとすらいえるように思いました。

もちろん,ある時は,資格を持った看護師として「特定の患者さんの医療行為」を行う時もあるかと思いますが,コミュニティナースの活動全体からすれば,それは一部であり副次的なものに思われました(患者さんへの医療行為が重要ではない,という意味ではありません)。

以上を象徴しているように思いますが,まず,コミュニティナースの主な活動拠点が,「病院組織」や「医療機関」だけではなく,むしろ,一見それらに無関係そうに見える,ガソリンスタンドや古民家やお祭りといった,「まちの動線」であることがとても特徴的です。これは,明らかに「まち(ネットワーク)」それ自体を対象としていることを象徴しているように思えます。

そしてそこでは,医療行為よりも,病にはかかっていなさそうな方たちも含めたふつうの話し相手や,日常的な生活の手助けが中心であり,「看護師」という一般的なカテゴリーや看板を取り払ったうえでの,自分ならでは,相手ならではの,つまり,地域の方々との一対一の,他でもない固有な個人と他でもない固有な個人との親和関係や信頼関係(社会関係資本)の構築をむしろ重視しています。

さらに,そうした活動を通して,講座を受け地域に参加する最初のコミュニティナースの活動を契機として,住民やまち全体に,そのエッセンスが波及していき,最終的には,資格,無資格関係なく,「まちの住民全員がコミュニティナースになること」(矢田さんの説明の言葉では,「健康に寄与する担い手の拡大」)が,大きな目的になっていると感じます。

実際,その瞬間を,ヤッチャバの活動の中で見ることができました。例えば,抹茶を無料で振る舞うブースをデザインしたチームにて,たまたま用意していたという折り紙に,ある住民の方が気づき,「私折り紙が得意なの!」と,生き生きとした表情で,子どもたちや私や大人にそのやり方を手ほどきし始めました。誰が,最初から,こういった展開を予想していたでしょうか。場を最初にデザインしていたのは看護師チームですが,その住民の方が率先して,たちまちに「折り紙レッスンの舞台」を即興的に作り上げたのです(正確には,周囲の方と一緒に,ですが)。

こうした偶発性,即興性も織り交ざり,さらに,モノ(ここでは,折り紙)や制度の意味がある意味で,転換されながら,場は大なり小なり予想外の方向に展開し,ケアする住民(コミュニティナース)が生まれていくのだろうと思い,それを垣間見るという貴重な体験ができました。

言い換えれば,「専門家が患者を治療する」という関係から,病の状態はどうであれ,まちの人たち全員が,互いを気遣い,助け合い,生きる愉しさを生み出していくような,つまり,共に癒し合うつながり,言い換えれば,「共癒(きょうゆ)のネットワーク」を持続的に創り,発展させていくような関係性の創出が,コミュニティナースプロジェクトであるように感じました。

それは,経済的収益がいくら増えても決して得ることができない,人間(人のあいだ)としての喜びという感情,あるいは活動力を共に創りだし,それを共有する体験です。

私は,雲南市のプロジェクトにて,参加させていただいた縁Joy・マットス・チームの看護師の方々が,地元高齢者の方々と場づくりを通して,そうした感情を発達させていく過程を拝見したように思いました。

※「共癒(きょうゆ)」という言葉は,即興演劇を応用させたパフォーマンス心理学という分野の活動と理論がもとになっています。心理学者ロイス・ホルツマンと哲学者フレッド・ニューマンが考案したパフォーマンス心理学の考えでは,新しい自分を自由に演じ合うコミュニティの形成こそセラピーであるとして,ソーシャル・セラピーという概念ないし実践を考案しています。

 

 

 

その2) 専門職ではない看護!?:「専門性」から「特異性」へ
さて,そのようにして,一人一人が,共癒的かつ共愉的なネットワークを構成する,あたかも生き生きとした細胞のような存在として発達していき,全体のネットワークもまた,一つの生き物のように自律的に動いていくことを目指すコミュニティナースの活動は,「専門性」という枠組み自体を,大きく変えていきそうな萌芽を感じます。

どういうかというと,こうしたコミュニティナースの活動は,哲学者のイヴァン・イリイチ※が1970年代に警鐘を鳴らしたような,産業主義の発展に伴う,専門職による知識の専有化(専門職という特権的地位の人しか,その知識が扱えなくなってしまう現象のこと)という課題の乗り越えにもつながりうる,活動と言い換えられそうだからです。

※イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」参照。本書の議論は,インターネット空間の創設や,現在のコミュニティ・ビルド・ムーブメントの元になっています。先述の「共に愉しむ」の共愉は,この「コンヴィヴィアリティ」の訳語です。訳本では自律共生と訳されています。

今日まで,産業が進み,様々な専門職が生まれ,分業化が進み,便利になっていった一方で,イリイチは次のように言います。哲学ならではの批判的実践ですので,少しラディカルな物言いですが,ご覧ください。

「大量生産の限度なき成長が環境を敵対的なものにし,社会の成員が固有の能力を自由に行使できなくさせ,人々を互いに切り離して人工的な殻に閉じ込め,極端な社会の分極化と分裂的な専門化を促進することで,共同体の組織を掘り崩すとき,・・・社会は破壊される」

そして,科学を基盤にし,様々なテクノロジーを生みだす社会に対して,次のように発言します。

科学的発見は,「機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし,人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう」

一方,現在に至るまで,医療の分野では,二つの分水嶺があったといいます。

まず1913年に,「それまでの呪医や薬草を使う民間医」に代わり,「医学校卒業の医者から治療を受ける機会が5割を超え」,「歴史上はじめて,医師は自分たちの能力を,自分たちがつくりだした尺度に照らして測ることが可能に」なったといいます。そのおかげで,幼児の死亡率は劇的に低下していき,伝染病の予防や治療が広がりました。

次に,1950年代に,「医療がそれ自身で新しい種類の病気をつくりだしたことが明白に」なり(これをイリイチは,「医原病(医者が引きおこした病気)」と呼びます),「医療専門職の独占が,全ての人間の日常生活に拡大」し,その結果,「人々は自ら世話をすることはほとんどなくなった」といいます。

そして,これに対し,イリイチは,「自分たちが患者に優れた健康を与えているという医師のうぬぼれ」が生じたとすら言います。

もちろん,医療の目覚ましい発展により,様々な病気が解決されてきたわけですから,やや激しい口調かもしれませんが,その一方で,経済的格差により治療を受ける権利の格差が生まれること,治療が高度に専門的になっていき,こうして経済と結びつくほど,人間の共生関係の中で本来育まれるはずの「社会としての治癒能力」が衰退していくことへのイリイチの警鐘については,目を向けるべき問題に思えます。

私は,コミュニティナースの活動をお伺いして,その1で述べた,共癒関係の創出とは,イリイチが喪失を危惧し,回復しようとした社会的治癒関係,コミュニティ・セラピーの場の創出であると感じました。

矢田さんがお話されていた,「お祭りで神輿かついで何になるの?」とよく周囲から言われるという内容,あるいは,そのエビデンスが求められるという声は,むしろ,「専門職」という閉じた枠の発想,あるいは,科学的で産業主義的な発想に立ってしまうからこその,(であれば,ある意味で当然の)発言ではないかと感じました(エビデンスが全く不要ということではありませんし,イリイチも,警鐘の一方で,科学の可能性についても論じています。科学は目的化,権威化させるものではなく,あくまで人間たちの共愉,共生関係を拡大する手段の一つにすぎないということです)。

では,専門性は不要ということでしょうか?

私は,これも,すでにコミュニティナースの活動では,違う見方を提案しているように感じています。

一言でいえば,専門性から「特異性」へのパラダイムシフトです。

このパラダイムにおいては,看護師という資格やそのスキル・知識は,全てあるいは中心ではなく,あくまで,特異性の一つとして含まれることになります。

言い換えれば,看護師の資格や専門知識が常に主役である地位から,あくまで,多様たりうる特異性の一部あるいは,時にはわき役で,別のものが主役になり,しかしある時には,看護的知識が主役になるときもある,というように,場面や状況や相手によって,常に変化していくものとなっているように思います。

例えば,先ほどのマットス・チームの方々は,普段の看護のお仕事の中で培われたであろう,患者さんに寄り添った話し方をとても自然に行っているように感じました(皆さんには当然かもしれませんが,私のような門外漢には,それ自体がとても看護的でその強みを生かした行為に思えました)。

他方で,それ以外の医療的な行為は殆ど前面に出ることはなく,それぞれのキャラクターや雰囲気が全面に出て場をつくっているように思いました。

ヤッチャバも,そこで何を行い,どうアプローチするかは,まさに,多種多様でした。「場や地域の特性」,「試みる活動」,「個々の特異性」との三角形のようなものから,多種多様な事柄が万華鏡のように変化しながら生まれ輝いていきます。

まさに,矢田さんがおっしゃられていた「コミュニティナースとしてよりも,個人として知ってもらうことがスタートであり,後で看護師というものがついてくるくらいでよい」ということを実感したシーンです。

また,象徴的なのが,友廣さんの活動です。特別な資格的スキルよりも,友廣さん独自のキャラクターや,場の読み取り方(友廣さんの特異性)が,地域の人たちと一緒に引き出され,増幅され,それにより,相手の方,地域の方ならではの特異性(ミサンガづくりが上手など)もまた,引き出され,増幅されていきます。

そうして各々の特異性が引き出されて結びついて発展していくことに並行して,共有する(コモンとしての)場や活動(お店や食堂)が,創り出され,発展していきます。

集権的,トップダウン的ではなく,きわめて,分散的な活動づくりです。あるいは,あらかじめ良く設計・計画されプランニングされた活動ではなく,即興的で創発的な活動のデザインです。前者は,ゴールや解決された状態が決定されますが,後者は,ゴールは常に未確定です※。

※コミュニティの心理学では,前者を問題解決モデルと呼び,後者をパフォーマティヴな創造活動とで分けて,その違いについて議論しています。

このように,互いの特異性が軸になりますので,通常の医療で見られるような,「患者」や「〇〇病」,あるいは「看護師」というような,一般的カテゴリーはむしろ背景化され,「その人ならではの何か(ユニークな人間性)」が前景化し主役となります。

もちろん,病院での看護師のお仕事も,全人的,個別的存在として患者をみることは日ごろから大事なものとして取り組まれていると思いますし,看護師自身の個性が生かされる場面も多いかと思います。

ただし,あくまでそれらは,医療的活動や文脈を主軸としたうえでのものではないかと思います。

これに対し,コミュニティナースにおいては,抹茶づくりが得意とか,笑顔が素敵とか,雰囲気が柔らかいとか,お料理が上手といったような特徴が,副次的,わき役的に活躍するのではなく,むしろ,非常に重要な主役として活躍するものかと思います。

以上を踏まえれば,私は,コミュニティナースの専門性とは,もはや「専門性」と呼ぶべきものではなく,先の哲学者のネグリとハートに倣えば,「特異性(各々ユニークな人や地域と繋がる中で立ち現れる,その人ならではの何か)」であると言い換えたいと思います。

彼らは,「コモン」(共通の場やシンボル)と,「特異性」とが螺旋的発達関係にあり,そうした,多様性がつくる各々多様な集まりのことを,マルチチュード(多数体,関係体)と呼んで,そうした活動が,次の新しい社会を生成するのだと述べます。

そして,コミュニティナースの活動にみられるような,専門性から特異性への転換こそ,一見,あたかも時代に逆行した警鐘にも思えるイリイチの議論に対する,具体的かつ未来構想的な返答の一つに思えます。

 

その3)菌のようなナース!?:脳を持つ組織から,菌のような活動へ
最後に,コミュニティナースの活動は,植物や菌にたとえられるものと思いました。

植物でいえば,土の特徴や気候条件が,コミュニティナースが参入する地域性です。土は場所によって,粘土質であるとか,火山灰質であるとか,塩も混じった海岸の岩場なのかなどの違いがあり,それによって育ちやすい植物の種類が変わりますし,同じ種類の植物でも,様々な条件の変化によって(日陰なのか日向なのか,水はけはどうか),育ち方も変わります。また,同じ種類の植物であっても,種には一つ一つ個性があり,色味や伸びかたも違います。

つまり,特異な地域性と,特異な種(看護師)との,複雑な相互作用によって,どのように,植物が育ち,根を張り,育ち,花を咲かせ,また新たな種を落とすのか,他の植物に影響を与えていくのかが異なってきます。周囲の特異な別の種類の植物がどのようなものかによっても,変わってくるものと思います。そうして,また植物側も土壌に影響を与えても行きます。

まさに,コミュニティナースは,各々の地域の特異性に対して,どのように自己の特異性を掛け合わせるのかという活動かと思います。

あるいは,共生関係や,その拡がりの例としてあげられる,菌やキノコにもたとえられそうです。

※菌には当然,脳はありませんから,幹部という脳が管理や指示をしていくという,集権的でピラミッド的な組織や活動とは大きく異なる活動を表現する比喩としてときおり使われています。

菌は,既に生えている植物の根に菌糸を伸ばして,その既存の植物にリン酸等の養分を供給します。そうして,植物の成長が促進されます。一方で,植物から菌は養分を得て,菌糸をさらに張り巡らせ広げていきます。

そうした,菌のような広がり方を,さらに喩えて,「野火的活動」(=野火のように,あちこちに分散的に活動が広がっていくことと)と呼ぶ,学習研究者もいます。

共生とは,このような交換関係から成ります。

ここでポイントなのは,単なるもらった,返した,のギブアンドテイクの関係ではない,ということです。もらった,返した,では,単にモノの行き来を指しているだけだからです。

それ以上に大事なのは,交換を通して,「互いが発達すること」です。変化していくこと,より良い方向に変わっていくこと,新しいものが創造されていくことが,むしろ,共生だと考えたいです。

コミュニティナースは,まさに,単に,古くからの農村部であるような,おすそ分けをたくさん互いにしあう,という互酬関係だけではなく,冒頭にあげたように,地域全体のネットワークを良い方向に変化,発達させていく関係性をつくり,それを広げていくことではないかと感じました。

共生は,その語の響きから,よそ者だからと郷に入ることを重視するようなイメージをもたれてしまうかもしれませんが,そうではなく,そもそも,互いの変化・発達あってこその異質なもの同士,特異なもの同士の共生です。

言い換えれば,ナースだけでなく,元の地域の方たちも,「おれ,ちょっとこういことやってみたい」,「こういうことやったら,もっとまちが面白くなるのではないか」,など,創造したいという小さな意志が生まれ,それが菌根状に広がっていき,「創造のネットワーク」が発達して,町全体に張り巡らされていくということではないかと思います。

菌は,ある意味で,異物なのですが,それが,既存の植物に新しい変化を生み,互いが育っていき,育て合う関係がつくられます。

もちろん,変化といっても,あくまで菌ですから,ブルドーザーのように,上からあたらしい方法を押し付けていくような変化ではありません。

コミュニティナースの方法論は,とても地域性に敏感でありながらも,よそ者であることや異種であることの強みをどう生かしていけばよいか,つまり,地域に養分を供給し,自身も養分を得て育っていくような共生関係が結べるのか,という問いかけをし続ける,非常に菌的な活動に思えました。

いま,人間生活と自然環境との循環を取り戻すことが大事と言われていますが,人が活動すればするほど自然や社会関係との間の境界が拡大し,破壊されていく社会構造から,人が活動すればするほど,自然も社会関係も発達していくような社会構造の創造が急務です。

それは,決して,禁欲を強いるのではなく,むしろ,人間本来の共愉的な創造活動を(新しい形で)回復していく活動です。

コミュニティナースには,そのような可能性と魅力を感じます。

なお,私は学習論の研究に関わってきたのですが,コミュニティナースのプロジェクトは学習論的にみても,とても重要な点が学習環境として盛り込まれていると感じています。皆様が経験されているであろう,多様かつ自由な発想でチャレンジされ,実験し,悩み,グループで活動し,互いのネットワークを維持し,なにをやろうかという開かれた感覚と少しの不安とがあるという状態は,ある種,学習論ではかねてからそうした環境づくりが大事だと言われてきた(が,そうであるがゆえに,十分,築けないでいた)点です。

これはまたいずれどこかで触れさせていただきたいと思いつつ,一言だけ,出発式に向けて,ある研究者の言葉をご紹介して終わりにさせてください。私自身,迷うときに思い出す言葉でもあります。

「何をやればよいかわからないという状態が,しばしば,新しいことの創造にとって最良の瞬間である」(by ロイス・ホルツマン)

 

もし何か迷われるようなことがあれば,それは,もしかすると,何か新しいものが創造される,最良のときなのかもしれません。

 

以上

 

 

 

香川 秀太( かがわ しゅうた)准教授

 

 

 

 

 

 

 

 

最終学歴
2007年筑波大学大学院人間総合科学研究科心理学専攻博士課程修了。博士(心理学)。

職歴       
2009年筑波大学心理学系準研究員,2010年同大学助教,2010年大正大学人間学部教育人間学科専任講師を経て,2013年青山学院大学社会情報学部准教授(現職)。
学会等での活動    日本認知科学会学習環境のデザイン研究分科会(DEE)(事務局),日本質的心理学会(大会実行委員,交流委員,編集委員),ICP(国際心理学会)(プログラム委員),日本語教育国際研究大会基調シンポジウム,国際戦略経営研究学会,厚生労働省看護研修センター,静岡県看護協会新人指導者研修,全国看護セミナーほか,講演多数。

受賞歴   
日本教育心理学会優秀論文賞,社会安全研究財団一般研究助成最優秀論文,ISCAR(国際活動理論学会)ポスター発表優秀賞,心理学独創研究内山賞を受賞。